とうほく健康旅猫日記

とうほくの日帰り旅、猫や自然、野菜の観察日記です。

勝手にイベント案内1

人文死生学研究会さま


https://sites.google.com/view/thanatologyashumanities/

当センター(=秋田大学高齢者医療先端研究センター)のスタッフも聴講しに伺います!

抜粋です。

■人文死生学研究会(第17回)■
日時:2019年3 月30日(土) 午後1時半~5時半
場所:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階212教室
1【発表 】吉沢文武(秋田大学教育推進総合センター 講師)

【題】「死によって何が剥奪されるのか」
【要旨】「死の害悪」をめぐる(主に英語圏の)哲学的議論において標準的とされているのは、「剥奪説」と呼ばれる考え方である。剥奪説によれば、死が死ぬ当人にとって悪いのは、その人が生きていれば得られたはずのさまざまな良いことを死が奪うからである。ある人物におとずれる死について、もしその時に死なずにその後も生き続けていれば、幸せな生活を送り続けることができたとする。あるいは、ずっと取り組んできた仕事を成し遂げることができたとする。そのような場合に、その人の死は、死ななければ得られたはずの幸せな未来の分だけ悪い、というわけである。
死を剥奪として理解する考えは、私たちが死を悪いものと見なす理由をたしかに捉えていると思われる。ただしそれは、死がもつ害悪のあくまで一側面かもしれない。というのも、死には、そのように指摘されるのとは異なる「悪さ」あるいは「恐ろしさ」があると言われることがあるからである。それは、死によって当人の存在そのものが完全に無になることの悪さや、その恐ろしさだと言われる。そうした考えは、死の害悪をめぐる文献のなかで、ときに言及されながらも十分明確にはされておらず、それが私たちに対してもつ価値について、どう考えればよいのかがはっきりしない。
本発表の目的は、「無になることの悪さ」という考えについて、死の害悪に関する標準的な議論と照らし合わせながら、明確化の作業をすこし前に進めることである。とくに、そうした「悪さ」もまた、一種の剥奪として捉えられるという見解を検討するつもりである。


2【発表 】雨宮徹(大阪河﨑 リハビリティーション学院)

【題】「フランクルの意味の思想における死の位置付け」
【要旨】ナチス強制収容所の体験記『夜と霧』で有名なフランクル(V.E. Frankl, 1905-1997) は、フロイト精神分析、アードラーの個人心理学によって形成された精神医学の流れに位置付けられる精神科医であり、哲学的にはシェーラーから大きく影響を受けている人物である。

彼の関心は一貫して人生の意味の問題に向けられている。したがって精神科医として療法を対象とする場合でも、その療法を支える世界観について哲学的に考察する場合でも、彼の考察は常に人生の意味との関連で展開される。したがって、自己の死という事態も、人生の意味にどのような影響を与えるか、という観点から論じられている。

今回の話題提供では、まずフランクルの基本的な意味の理論と時間論を紹介する。次に彼が人間の本質として規定する精神的人格と死との関係がどのように理解されているかを確認し、そのことと人生の意味がどのように関係づけられているかを考察したい。

お願い!研究会は互いに学び合う場です。相手から学ぶ気がなく自説のみを延々と主張して他の参加者の発言機会を奪ったり、ゲスト講師に対して攻撃的な批判を浴びせる等の行為は固くお断りします。また本会は学際的な研究会なので、死生学と直接関係のない哲学の専門的議論をしたがる方には哲学専門の研究会に移ることをお勧めします。

人文死生学研究会 世話人
三浦俊彦(代表)東京大学文学部(美学/分析哲学
渡辺恒夫(サイト責任者) 東邦大学(心理学/現象学
psychotw[atmark]env.sci.toho.u.ac.jp
蛭川立 明治大学情報コミュニケーション学科(人類学)
新山喜嗣 秋田大学医学部(精神医学)
浦田悠 大阪大学(死生心理学)←4月より
重久俊夫 (事務局)著述家/教育職(思想史)
ts-mh-shimakaze[atmark]yacht.ocn.ne.jp