もし急に、「あなたは認知症のリスクが普通の人と比べて10倍です」と言われたらどうしますか?
とはいえ、現状、そんなリスクが分かる機械も健診もないわけですが・・・。
なのでただのたとえ話です。
ある「リスク」が「ありますよ」と言われたとき、私達は何を選択するべきなのでしょうか、そしてその選択に確実な基準はあるのでしょうか。大抵はありません。さらに「リスクA」を減らすために行う行動が「利益A」を減らしたり、さらには「リスクB」を生み出すことさえあります。
これは単なるたとえ話なのですが…週末は、この翻訳の作業で仙台でした。
ドイツの社会学者、オルトヴィン・レンの著作。
なお、認知症が予防できるものなのかどうか、原発問題をどうするのかということについてここで私見を書くわけではありません。
そのときメルケル首相が組織したのが、エネルギー供給に関する倫理委員会。
日本だとこうした委員会は、自然科学の研究者で構成されがちのですが、ドイツでは哲学や社会学の研究者も仲間に入ります。そのメンバーの一人がこのレン先生です。
こういう本を一文字一文字訳していくと、いわゆる「先進国」は、先のこと(=将来のリスク)を現段階でいかに、見積り(=リスクがあるかないか、どの程度か調べる)、対処または予防するかに躍起になっているなあという印象をうけます。
認知症も「リスク」の問題になってきていますね。
「正しく予防」すればそのリスクを下げることができるのではないかと。
「予防されるべきもの」というのは、「悪い」ものだと考えられているものなのですね。「認知症がいいこと」ならば、進んで認知症になりましょう、と考えるはずです。
この先は、私見でありセンターの見解ではありませんが、認知症は怖いというイメージが、既に(初期の)認知症だと診断された人にとっては「呪い」のように機能することも見落としてはいけないと思います。この「呪い」とどのようにつきあうのかも、人文系の人間が考えていくべき事柄なのです。
近年では、原発の問題にしても、単純な数値情報に流されて必要以上に恐れるよりも、専門家の意見を聞いたりして「正しく」情報を収集して、適切に「恐れる」ようにしましょうというような議論も出てきておりますが・・・。
でも、レン先生もおっしゃるように、そういう専門家の意見を「正しく」理解することだけでも、大変なわけです。この問題は大きい。しかも認知症のように「狭い意味での理性」に関する、ある種の障害だと、なおさら、偏見や恐怖がつきまとうわけです。これはリスクの人類学的にみても、理解は可能です。そういうものです。
けれど、その恐怖もまた、社会が作り出すものです。
社会が違えば認知症に関する恐怖も違うはず。
最近刊行されたこの本にもそうしたことが書いてありました。
かなり情報量が多いのでオススメです!
春めいてきました。
次回は、五能線の旅をお伝えいたします!